JIMA-DON

ニシジマオさん(自称日曜音楽家)の日常と散文駄文

モヤフェスに出た、あるいはモヤシイズムとの邂逅

 結婚、転居、まあいろんなライフイベントをしてずっとこのブログを書かずにいて、急に書く題材がそれなのか?といぶかしがる御仁に
 「まあそれならしょうがないんじゃないかな」
 と思わせる出来事があったんで書いておこうと思う。

 去年の12/13にあるライブに出たわけです。


 モヤシイズムというのは今、ひょっとしたら福岡でいわゆるアングラアイドル的存在としてはたいそう面白い。コンセプトもいいけれど、楽曲作成能力とイベント営業力のフットワークがピカ一で、しかもどうも彼女自身の才覚によるのが大きいのがわかる。対バンした人ならわかると思うけど、彼女の眼が語っている(※もちろん脆さと儚さも宿っているので、クソ商売人の眼じゃないのも好み)。

 そんな彼女の頼みなんて断るわけないよ!!なに一つ!!

 まあべたぼれなのはほかにも理由があるんです。
 それは2016年の5月のあるライブにさかのぼる。

 2016年は苦難の年だった。
 正月、前嫁と三社参りに出かけた。足取りは重かった。
 前年末に、俺たち夫婦はセカンドオピニオンを立てにがんセンターに行ったのだった。そして、彼女の余命は1年未満と言われてしまったのだった。
 毎年行く三社のうちの一つ、竈門神社で撮った彼女の写真が、ひどくやつれて見えていた。あの時はからげんきで大はしゃぎしていたけど、何一つうまくいっていなかった。

 彼女の容体は日に日に悪くなっていった。
 聡明な彼女は死におびえるようになり、そして肝臓の腫瘍が咳を誘発するようになったころから。中学生が見るようなYoutube動画を見てけらけら笑う日が続いた。それはもう逃避だってわかっていたし、俺のほうも気が狂いそうだった。
 何せ、20年近く愛し合った二人だから。
 そして正直わかっていた。俺が権力や財力があっても、もうどうにもすることができない絶望の罠にハマっていた。
 そんな感じで、音楽なんてやってる暇じゃない時期だった。つか、もう廃業したも同然の気分だったのだ。
 余命宣告とほぼ同時期にライブをしたとき、メンバーに「もうしばらく音楽はやれない」と悲壮感たっぷりに告げたことを覚えている。あの子の病状は伝えたっけな、伝えなかったとは思うけどなあ。

 その春ごろ、そんなことやってる暇じゃないとか言いながら、なぜか自作曲が大量に生まれていた。
 先の見えない、そして必ず破滅が待ってるこの闘病と介護の生活を、まるで壊れた宇宙船に乗ってるみたいだという心情を歌った歌「Starduster」。逃避していいことがあるのか?「士幌線ポルカ」。本当に自分を励ましたくて作った「正調がんばろう節」とか。
 そんな時期に、息づまりそうだった時に友人の藤田進也君率いるポカムスのライブを見に行って、そこでユーテロの原尻さんに
 「一週間後ですけどライブしません?ノルマもなしでいいです!!」
 …いや、対バンの人にはとても悪いし、なんだけど。本当にそんな話が来ちゃったのだ。きっとあのライブ、欠員補充だったりしたのかな。まあ真相なんて知らなくていい。
 俺はなぜか二つ返事で受けて、その新曲群を構えたソロライブを決行することにした。

 その日のライブはお客さんを呼べるわけがなく、自分の客がいたのかも覚えていない。けれど、そのライブのお客さんのツイートがいくつかあって。
 「赤い服を着たおじさんの曲がすごくよかった」
 というシンプルな感想がものすごくうれしかった。
 その日帰宅したとき、嫁が
 「楽しかったの?よかったね」
 とたおやかに微笑んでたのを覚えている。

 後で、その日の数少ない客の中にモヤシイズムがいたのを知った。あの時のアカウント名を思い出すと、そんな素朴な感想をくれた人の一人だった、と思う。おそらく。

 どのくらい、あのライブを敢行したことに勇気づけられただろう。
 前嫁が亡くなって、すぐにライブしたいと言い出したのも。
 彼女の葬式におれの友人のミュージシャンが多数来てくれたことが一番大きかったけど。きっとあの日のライブができたなら、という気持ちだったのは間違いないと思うんだ。

 正直、あの日のライブを見てくれたモヤシイズムが、自分を大事な日のライブに呼んでくれたことは凄くうれしいなんてもんじゃない。
 俺にとっては人生の恩人なんだよ。あの苦しかった時代を支えてくれた。
 そして人生と音楽活動が続いたおかげで、新しい嫁と出会って結婚までするわけですよ。つまり夫婦の恩人ですよ!!イエー!!


 ライブ、すっごく楽しかったですよ!!
 音楽の現場は美しい!!