がんと戦うということ(1)
シーナ&ロケッツのシーナさんが子宮頸がんで亡くなられました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
さすがに福岡の音楽界は色めき立ちまして、殊更シナロケを敬愛して前座までやってのけた鮫肌尻子ちゃんのツイートなんかを見ると目頭が熱くなってしまったほど。
そんな中、そんな音楽周りの知人にも一人「子宮頸がんの疑いあり」とのことで検査手術を受けた、という者が現れたりして。
自分にとっては嫁が重篤ながんから生還するという奇跡的な体験を果たして随分経ちます。
今だからなんとか話せるという体験談がいくつも山のようにあります。そういうのをつらつら書くいい機会じゃないかと思いいくつか。
1.冷静な判断など絶対に出来ない
結果論になったから書きますが、あの嫁へのがん宣告の時、俺絶対出なきゃいけないライブを5日後に抱えていました。事務所付きの地元アイドルとの3マンという穴をあけるわけには行かない日。ま、それでもアマチュアバンドですけん、抜けようと思えな抜けられたわけなんですが。もう腹をくくって、向こうの親に激怒されてもいいやって気分で出ました。ライブの次の日は手術でした。
これもしライブ抱えてなかったらどうだったろう?とふと考えることがあるのです。
嫁をとりあえず病院に救急車で運び、一人部屋で突っ伏したあと大声で泣き、子供みたいな祈り方で
「どんちゃんを元に戻してくださいお願いします」
と神様に祈ったのを覚えています。漫画みたいな情けない有様です。
PCを立ちあげて嫁の病状をネットで検索しても絶望的な情報しか入ってきません。いや、それどころか怪しげな療法のサイトとかを見始めた次第です。
その1〜2時間後にバンドの風原だったか、確か電話があって我に返ってとにかくライブはやる、となって練習やらをばたばたやって本番に臨んだんです。
「そんなことやってる場合じゃないだろ!!」
な時にそんなことやってる場合じゃないことをしなきゃいけなかったのが、結果的に自分を現実に引き戻したというか。
それと重大な局面に立たされたのが、俺、初めての一人暮らし(いきなり)だったのです!!
今までの生活、常に誰かが飯を作ってくれる、風呂の準備してくれる、であったことに気付かされたわけです。だからいきなりサバイバーな状況になったことをうちの兄妹も嫁の実家も慮ってくれるわけでもなく。まあそこまでみんな気が回らないよね。
そういったわけで嫌でも頭を冷やさざるを得ませんでした。
急に一人で生きなくちゃならなくなったから。
もう一つ冷静さを取り戻してくれたことがあるのですがそれは3あたりの章立てに書きます。
んで、結果。
医者の提案はほとんど肯定しました。どれだけお金のかかる決断になったとしても、嫁が望むとおりにしようと。医者の提示したかなり残酷な決断もしました。運ばれた病院は近所の評判はあまり芳しくない大病院でした。これらをもし、動転したまま変な知識を仕入れて、医者に楯突くなりなんなりしたり、病院を変えたりしていればどうなったか?自分はぞっとしています。
提案を受け入れ手術後、病状の宣告はとても辛い内容でしたが、その日の夕焼けはきれいでそれを見ながら何の根拠もなく
「いい方向に行くに決まってる」
みたいな事を言った気がします。あと、このとき人生で最高のかっこいいアメリカンジョークを嫁に披露して「どや!俺うまい事言ったろう!!」的な出来事がありましたが、その話はネットには書きたくないので直接自分に訊きに来て下さい。聞いたらきっと感動します。
母から漏らされた一言なんですが、
「もしがんセンター運ばれとったら心が折れとったかもしれんね」
これ、母もがんセンターに入院して手術した経験からのもの。周りはみーんながんの患者ばかりで、それが余計にプレッシャーになったそう。そこから先の話はなかなかキツイ話になるので省略いたします。
対して嫁は一般病棟で、まあどんな病気かはわかりかねますが皆様ご病気で、と推し量る程度で済んでいたようで、それも何よりでした。
あと経済的な面ですが、保険に入っていなかった自分は凄く深刻だったわけです。この時ばかりは自分の親に頼ることになったのですが、その前の年に私実父が長い闘病の後亡くなっており、そのときの医療費の面で色々と安くなる手続きを教え、時に役所に一緒に手続きしに向かったりしておりました。
オフクロはそのときの恩で手術費をみると言ってくれました。
人助けは帰ってくるんだなと肌で感じたのは言うまでもありません。
まあ、ドライに「これっきりよ!」と続けたのもうちの母らしいですけどね。
とにもかくにも。がんは日常を突然非日常に変えてしまいます。
絶対に冷静でいられる訳がない。だからこそ一歩引いて考えて、ある程度は流れのままに行かないといけない。私は冷静だ、この流れはおかしい、なんて思考に至っていたらどうなっただろう?
結論として、夫として自分は積極的に表立っては何も手を下さない無能な振りを演じました。嫁方は色々調べたり転院を勧めたりしていたようです。ただ幸い自分には複数の医者の同窓生が居てアドバイスを頂いており、それらが冷静じゃない物の見方になってるのがわかっておりました。
自分は自分なりに冷静になりそういう結論に達したのには、
「嫁を日常に戻すこと第一で行動する」
という強い意志がありました。変にアグレッシブに民間療法を試したりするのも柄じゃない、いつもの俺で居てあげようと。向こうの親からはたいそうに評価を下げられたのもむべなるかな。だが絶対に後悔しておりません。すみません、そういうことであったのです。
むしろ結果的にそこがうまく行ったのじゃないかと思っています。
ただ、嫁の生存確率はおよそ3割ほどだったことも書き加えておきます。
(当然続きます)