JIMA-DON

ニシジマオさん(自称日曜音楽家)の日常と散文駄文

法事と法事の合間

 初盆と一周忌を二回やらなくてはならなくなった。どうもつつがなく初盆は終了したらしく、お盆最終日にカミさんが夢に出てきた。たおやかな笑顔で微笑んでいた。わからないものだ。

 そんでようやく夏が終わった。夏は嫌なことをいろいろ思い出す。3年前だったか職場のストレスが原因で自律神経を乱した挙句謎の腰痛腹痛不眠に悩まされたことがあったものだった。
 そこからは社員登用を二度ほど検討されて保留していた。理由は嫁の病状が再発、再発でそれどころじゃなかったのもあるが会社の空気がすこぶる悪く、何より最悪の上司がいたからなのだが、結局そのオッサンは俺に終始負け続けておったのだなあと思い出す。

 CADという特殊技能のおかげで割と高い自給の仕事で稼げたおれであるが、覚えた発端は「地図が描きたい」というもので。まず測量事務所に行って航空測量の会社の下請けの仕事をバイトで頂いたがとてもニッチなCADと判明。
 「次はメジャーなCAD覚えよう」
 とばかりに求人情報誌で調べて外構設計の会社でAUTOCADの修業した。今考えればここで造園設計の資格でも取っておけば面白かったかなとも思ったがこのとき俺は劇団員も掛け持ちしていた。この時辺りからだろうか、自分が何となく
 「本当はこの仕事向いてない」
 と思ったのは。ミリ単位の誤差も許されない世界に芸術家肌で挑むのはいい度胸だ。結局その後転々としていろんな職場を巡ったが、辞め時はいつも
 「本当にこの仕事向いてない、稼げるしちょっと出向けば仕事貰えるけど」

 まあそんなわけで劇的な辞め方をすることになり、心的外傷もいまだに癒えないほどのジジイがいた件の職場に流れ着いたとき、一日めにいきなり怒鳴られた。
 「道路の歩き方がなっとらん!あれお前らだったじゃろうが!わしの車を邪魔しおって!車で通るとき危ないじゃろう!!そういう日々の心構えがなっとらん」
 派遣社員の人と二人に怒鳴り熱弁をふるうジジイの意図が心底さっぱり分からなかった。初日の熱弁は三十分にも及んだ。

 その後もジジイとはいろいろ対決したが、おれのCADのオペレートは絵描きのテクニックを多用する。「ブロックエディタを使ってマスキング手法にする」というのに毎日のように噛みついていた。「こんな手法は絵描きじゃ」吐き捨てる、呪詛のようなだみ声をよく発していたのを思い出す。
 対して自分は全く彼の意見を無視しまくった。また入れ替わりが当たり前のように激しかったので新人さんの教育を自分がやることがあったので、教えるたびに彼に聞こえるように大声で「あたしゃ大学の美術系のゼミ出身なんで絵描きのCADなんでね、こういう手法使うんですが」。さらに言うとその人の技術は十年前で更新がストップしていたのだった。提携会社に自動作画ソフトを作らせていたのだが、恐ろしいことに仕様書や計算書もCADファイルで作るというポンコツソフトだった。DOCUWORKSの存在を知らなかったのである。
 そもそもCADの設計士さん自体まともな人は二人。工場勤務だった、元営業だったという社員さんが「お前の席に座ってた前の人は切れ者でなあ、いつもいいよったよ…こんなちゃちなソフトと…」あ、それ俺も思ってた。
 会社の業績は、相反してちょうどバブルってた。やー勢いって怖いね。ジジイはポンコツソフトではあったが大いに時短に貢献したものを作った功労者として、次期社長と言われていたボンボンの副社長と蜜月であった。必殺仕事人で間違いなく殺される二人、みたいな人相であった。

 この泥船に乗っかるわけにはいかない。3年近くいただろうか、積み上げていた自分が担当した案件のエクセルファイルをつらつら眺めていたらミスが3とか4とかじゃ済まないほど見つかったのを見て、折をみて辞めることは決めていた。
 「上司を怒鳴って辞める」
 パンクな辞め方としては最高だった。その日もAUTOCADについてブロック機能はそもそもこうであるから物事の道理がわかっとらん図面をなんでこうと(毎回間に絶対に人を入れていう陰湿な手口で)30分講義している最中勢いよく席を立って「黙れバカ」と吐き捨てた。このジジイ、髪と服など身なりはいつも手入れをしている様子だったが実に体臭が汚く、昔友人が飼ってた老いたポメラニアンの臭いがした。子犬のような目ですっかり固まっていた。

 この怒鳴った日、偶々あの副社長並びに人相の悪い上層部がいなかったのは幸運であった。まあもちろん「いつかあのじいさんは断罪されるべき」との全員の意見は一致していてその日のうちは慰留はされたのだが、次の日欠席裁判で即解雇にしてくれたらしい。俺としてもたいそう助かった。おれも速攻で昔通った心療内科に行って診断書を貰ったので、それを送りつけて傷病手当を戴いた。

 さて、その後いろいろ訴えるぞとかファイティングポーズをとり続けたおれなのだが労働基準監督局が「これはひどい、訴えたら勝てますね」と言わしめるような内容証明郵便を弁護士を入れて送ってきた。社員として働いてたらどんな目にあわされてたかわからん、と寒気がした。
 さてそんな泥船の会社なのだが転職サイトに口コミがあって、その時の同僚が一人辞めていることが発覚したり。社長が世襲で変わった途端株価が急落したり。肝煎りで東北の復興で上陸とばかりに作った北国の営業所があっさり撤退されたり。それでも実のところは世の中の役に立つものをオーダーメイドで作れる会社なので、世の中の役に立つことをやれば潰れることはないだろう…とは思っていたものの、ボンボン副社長は毎日「あの会社技術ごとM&Aしてー」が口癖だった。軽く調べると本当にやってた。四季報を見ると俺のいた3年だけが燦然とよい数字をたたき出しており減収は続き、創業者は自社持ち株を大量に売りに出している有様で、アホな意識高いベンチャーの真似事なんかしなくても町工場の雰囲気でやればいいのに…と老婆心のように思えど、今更もう引き返せないのだろうなあ。
 なによりこの会社の主力案件というのが近年あまり評判が芳しくないあるものなのである。これ以上ダイレクトに書くのはちょっとコンプライアンス的にはどうかなので書くのは憚るが。いろんな仕事をしたが正直、今まで図面を引いた中で後悔している仕事はこの会社でやったもの。

 今まで地図に残る仕事もしたし、庭周りの設計の真似事もしたし(実際その通りに施工されて喜んだ)、点検業務のような縁の下の力持ちのような図面も引いたがあの仕事を選んだ自分、金に目がくらんだとしか言いようがない。そしてそういうとこに群がる人間に碌なやつはいない。思い知ることになった。心もたいそう病んだ。

 皮肉にも嫁を喪う災禍で、ようやくどうでもよくなってしまった「例の会社」。AUTOCADはにこにーだって描けるんだぞ。お絵かきツールとしてはなかなかのものだと思っている。イラストレーターと相性いいし…あ、そういやあの会社、アドビ製品が一切なかった。使える人もいなかった。PDFをCADに変換できなくて不便やったなあ。
 あ、そういや。そこの書類ケースのデザインをボンボンに頼まれて、持ち帰り残業でAIファイルとPDFファイルで5時間くらいかけて作ったの思い出した。まったく賞与などは出なかったことをよーく覚えているし、実用されたのは間にデザイン会社が入ってダサくなった代物であった。まるで、「お前らにはこれで十分じゃあ」と言わんばかりの技術のダウンサイジングがなされていた。今冷静になって考えると、恨まれていたのだろうかな。もちろんだがこの件については今をもっても少し腹が立つ。あの複数の悪相を思い出すという点において、不快害虫を見かけてしまった程度で。