I hate summer
西鉄電車に乗っていた。
どの駅から乗ってきたかは忘れた。女の子は激しぐずっていた。
幸せそうな親子だった。俺らが手に入れることができなかったキラキラした幸せだなあ、とほほえましく思った。
ただ少女はとにかく怒っていた。単純に座席に座れなかったのが嫌だったのかもしれない。それがきっかけであろうことを口に出す。
「だいたい海のほうがよかった、ぎゃー!」
わんわん泣いている。駄々をこねている。
***
去年の今月末頃の話だ。9月、がんで死んだ嫁の話。
彼女の病状は俺にだけ知らされていた。腫瘍が播種を起こして消化器官をふさぐほどに成長したこと、体力的に考えもう回復は望めないこと。それでも彼女は愚痴ひとつこぼさなかった、とある親戚は自慢げに話していたが、全くのでたらめだ。
今になって書く。
彼女の体にカテーテルが入れられ、消化器官に詰まっていた内容物を鼻から掻き出す。
その管を指さしながら、彼女は言った。
「この処置、すごく痛かったんだ…」
もう、彼女は語彙力が少なくなっていた。
「こんな処置受けてまで帰れなかったら、悲しい…」
何とも声が出なかった。そもそも俺はその時点で彼女にうそつきさんを通さなくてはいけなかった。
「家に帰りたい…」
帰れるわけがないんだ。
カテーテルから流れる黒い液体をじっと見つめながら俺は
「ああ、帰ろうな。録画したやつをちゃんと見ような」
今でも覚えているのだ。
その臨終の瞬間を。
彼女は意識を保ちながら必死に持ちこたえた。声は上げるが、言葉は出ない。
まばたきもできないほどだった。
しかし看護婦が、カテーテルの交換をしようとしたのを見た刹那。
彼女の中で何かがはじけたんだろう。あの痛い処置を味わうくらいならと。糸が切れるように彼女は目を回し、血を吐き出し息を引き取った。
母が泣き崩れる自分の姿に肩に手をやり
「かわいそう」
と言ってくれたことを覚えている。
23年の大恋愛と心をぶっ壊したライアーゲームがようやく終わりを告げ、クソみたいな事務手続きやら法事やらがやってきた。
***
俺は女の子の泣き声を聞きながら、駄々をこねる声を聴きながら「あの日」を想い出していた。そんな俺の姿をほかの乗客はどう思っただろうか?恐ろしい形相をしていただろうなとは思う。気が付いたら、涙をこぼしていた。これは悔悟なのだろうか。それとも悔恨なんだろうか。
いつの間にか泣き止んでいた少女はどこに向かうのだろうかな。彼女はまだ望み通りの場所にどこにだって行けるのだ。幸せでいいな。
俺の涙も、法事をつつがなく進めてほしい連中にとってはどうでもいいことなんだろう。今月は初盆、来月は一周忌と法事が2回続いてしまう。
ただ、あの黒い液体が流れる地獄のような光景をふたりで見つめた情景と、彼女が「帰りたい」と何度も駄々をこねたことは二人しか知らなかったこと。つくづく彼女は心を許してくれていたんだな、と同時に俺もそれほどまでに心を許せる相手を喪失してしまった、という暗澹たる事実に直面するのである。俺には、あの女の子のようにあたたかそうなパパもママももう、いないのだ。それは、彼女だけだったから。