JIMA-DON

ニシジマオさん(自称日曜音楽家)の日常と散文駄文

シャーロットの感想


 珍しく「今期のアニメ」的にアニメをみた。
 思えば自分がオタク道にどっぷり浸かった、いや人生狂わせた何かがあったのは間違いなくKey作品。90年後半〜00年代前半の作品群。KanonAirCLANNADの3作品。
自分にとってこの3作品は「同世代がやってくれた快作」であった。
 そもそもあの当時の18禁ギャルゲーというジャンルは
 「日活ロマンポルノ」
 を髣髴とさせる環境が出来上がっていて、つまりエロさえ入っていればなんでもやれる環境であった。「魔法少女まどか☆マギカ」「仮面ライダー鎧武」の虚渕玄だって生まれたし、あれらを見て「俺も何かやろう」とスイッチを押された同世代は多いと思うのです。

 で、シャーロットというアニメが今期始まりました。
 イマドキのアニメの売れる要素を色々考えてみました。
 ヒロインは沢山いたほうがよい。ぶっちゃけ男は要らなくていい。ラブストーリーなんてひょっとしたら必要ない。音楽はアイドル路線で。緩やかな日常とその起伏さえ感動的に描けばいい。活劇なんて必要ない。

 Keyブランドに立ち上げからシナリオライターとして君臨して、その後現役から遠ざかる旨の発言をしていた麻枝准が新作アニメを作るという発表。
 ヒロインは実質一人でした。
 そのヒロインと、主人公の少年との純然たるボーイ・ミーツ・ガール。
 バンドサウンドを中心にした音楽。カート・コバーンを髣髴とさせるキャラクターの登場。劇中の国民的人気バンド「How-Low-Hallo」。
 絶対に非日常的な騒がしいキャラクターたち。そして超能力を駆使した活劇。悲劇。ほとんどの伏線が、SF的なものではなく主人公の心理的成長に使われていった。誰もがピザソースの伏線を「超能力を抑制するため」と考察していたのに。俺ですら。

 どう考えても「イマドキのアニメ」たちへのアンチテーゼです。
 このアニメは間違いなく「あの頃のギャルゲー文化の総括」です。
 あの頃のギャルゲー文化があったからこその今時のアニメなわけで、そこに研ぎ澄ましたあの頃のストーリーを投げ込んでみたら?
 雑誌のインタビューで「これは私小説のようなもの」と麻枝准が発言したのも納得できる気がします。時代に迎合する気なんてはなからなかった。

 おそらく評価は二分されるのじゃないかなあと思うのです。
 今の若い子にどれだけ刺さったんだろう?
 ニルヴァーナの「スメルズライクティーンスピリット」だって聴いてほしいし、もちろんポストロックだって聴いてほしい。

 福岡にフォークイナフというバンドがいます。ニルヴァーナを敬愛してやまないギターボーカルの方は、「スメルズライクティーンスピリット」をセットリストに入れるという条件のライブに臨むに辺り髪を金に染め、その上コバーンのしっとりボサボサ感を出すために一週間髪を洗わずに臨んだと訊きました。

 劇中、熊耳が最初に現れた時。これを見たらあの人はどんなに狂喜するだろうと思いましたとも。そして彼だけが死ぬという展開は、どれだけカート・コバーンを意識してるんだか。

 「好きなものは好きと言え!!」
 「好きな人には好きと言え!!」(※これが重要)

 全編が「好き」で埋まった作品だったような気がします。
 好きなものを、周囲の評価を気にしながら斜に構えて、「嫌い」から発言しなきゃ「イタイ」と思われるこのくそったれな時代。
 「好き」を詰め込んだ作品だからこそ「私小説みたいなもの」なのでしょう。

 「好き」は人それぞれなのです。
 周りの目など気にせず、匿名ネットの評価もSNSの評価もどうでもよく。

 ぼくはこの作品が「好き」で終わりました。
 考察やあら捜しなどの「嫌い」集めより「好き」集めで明日から楽しさを積み上げましょうや。

***

 ところで重度の鍵っ子なら気付いたかもしれない。
 最終回、ひょっとしたらクラナドの「ことみエンド」のリスペクトを込めたオマージュなのかも。
 ぬいぐるみの入ったかばんがいかにしてヒロインの元に戻ってきたか。そして、最後にさりげなくジエンドの曲の入ったプレイヤー。

 「前よりいい音♪」だったかい、乙坂君。