JIMA-DON

ニシジマオさん(自称日曜音楽家)の日常と散文駄文

仕事人講評「仕事人、死す!」

 昨日は大耳に行ってきました。

 テレビカメラマンと、大耳の大先輩に当たる倉地久美夫さんが参加しておりました。
 こういうときは恐れず自分を出せ、とばかりに果敢にアタックさせていただきました。特に最近テーマにしている「演劇風朗読とも、詩の朗読ともつかない感じの即興ヴォイスを入れる(※目標)」がまったく噛むことなくスムーズに進んで、おお、ここ一番でよくやったぞ俺!!ってな感じに仕上がって倉地さんにはお褒めの言葉をいただく、なんて感じで心の中ではもうガッツポーズです。
 しかし、倉地さんが8年前にひょっとしたら通過した場所だったんじゃねーの、ということを再認識させられたのは内緒です。
 でも何か、心は春のセンバツに21世紀枠で選ばれた地方高校の球児のような気持ちで帰宅。

 そのときに出た言葉が
 「我々は五次元位相で四次元軸に向かって吹く一陣の風にあおられて飛ばされたビニール袋のような存在に過ぎないのではないか」
 みたいな話だったのだけど、どうして思いついたんだか。

 帰り、宮井君を送っていったのですが、来るべき世代間戦争についてだとか、学歴による社会人の価値観の相違から観る格差社会の現実とか、まあそんな小難しい話で盛り上がって、最近ドンの字といかに頭の悪い会話しかしてないかがよくわかりました(苦笑)。しかし、ドンの字の前では「無意味な自分に意味をつけようとする自分」をさらけ出す危険性を常に認識させられるわけで、それでオッケーなのかな。

 多分100点満点であったら辛い点数で85点くらいになるんだろうけれど。その減点材料はやはり冒頭の「仕事を見られた」をなし崩しにした部分が10点くらいになるんだろうけれど。
 必殺が持つテーマ、鬼になった人間を市井の人々が鬼に成り代わって討つ、その悲しみといういたってシンプルな部分を、執拗に美しく描いた、源太最期の殺し。
 なぜこんなシンプルなことがずっと仕事人絶頂期に出来なかったもんなんだろうか、考えてしまう。勧善懲悪時代劇じゃ、仕事人は鬼になっちゃいけなかっただけといえばそれまでだが。
 どれだけ、伝わっただろうか。
 人は鬼にならないと生きてはいけぬ、そううそぶいて生きることの愚かさと、しかしそれをせざるを得ない悲しみを。

 源太が結局命を落とすことになった原因。初期話数では被害者に必要以上に感情移入して涙を見せていたり、小五郎がたびたび見せていた弱さではなかったのかしら。その部分をしょって、去ってしまった。この辺が後半ストーリーの鍵になるのかもしらん。赤井剣之介を失った主水が、新仕置人1話で「あいつのことを忘れてた…」と反芻したように、繰り返しオマージュとしてのシーンがあるのかもしれない。

 細かいところ。
 これだけ重いテーマを描きながら、最後の渡辺家ドラマは爽やかでよかった。なんかすっげえいいデザートを食べた気分。