JIMA-DON

ニシジマオさん(自称日曜音楽家)の日常と散文駄文

四十九日の夜は更ける

 カミさんの四十九日法要が終わった。心境もだいぶ変化して来た。やはりこの仏事って上手いこと出来てるもんだなあと感心している。
 わらわらと集まってきたわが兄弟やら嫁の親族たちとお坊さん待ち時間に、6月にオードリー若林が優勝したIPPONグランプリを観覧。こういうのは故人の生前愛していた番組を見るものだろう。ちょうど若林正恭悲願の初優勝の直前にお坊さんが来た。今年のカミさん、まあ死ぬくらいだから持ってない。

 カミさんの部屋で恭しく経を上げる直前、本棚にあるアストロ球団を見つけてお坊さんが「これは!」と一言。着替えながらアストロ球団の話で盛り上がるとは。
 「実写版…そういうのがあったんですか!」
 「いや、これ本当に凄い再現度で」
 横から実の兄が
 「あの球七が無理して背小さくしてるとこおかしかったよね」
 「そうそう」
 という会話がカミさんの仏前で広がって、無事法要も終わり、お坊さんとは実写版のDVDを貸す約束をして、嫁方の親族にはカミさんのチョコを引き継いで作ってるのを見せて解散。自分に安心をしていただいた。

 最後はちゃんとみんなでテレビをつけて、IPPONグランプリの優勝者を観とどけた。おれの実母が
 「あたしねえ、福岡吉本があったときわざわざ観にいったことあるとよ、華丸大吉」
 そう、母もお笑いマニアなのである。結局カミさんが死ぬ前に情報が入っていたのに楽しみでも見られなかった「クイズ☆スター名鑑」を少し見て頃合を見て解散した。笑いながらカミさんの昔話をちびちびと。

 さて法要がすべて終わった。親族も皆帰って一人。法要の準備は寺に手配したり過去帖準備したり仏壇の置き場所を作ったりと、軽く見積もってた5倍くらい大変忙しかった。家事もしたくなくなったので外食をすることにした。二日市のサンハウスというハンバーガー屋。思えば5年前にカミさんが1年弱入院と加療で実家に寝たきりになっていたとき、たまに一人酒しに行った場所だ。ハンバーガーも当然美味いが、格別ビールが美味しい。
 横にやってきた客と意気投合した。カミさんのなかば介護に近い生活の頃、彼は逆にオーストラリアのバナナ農園で働いてた話をしてくれた。つまびらかに書いてしまうと明日からバナナ食えないよなという話もあったがおおまかにはまあ確かにな、自然ってそういうものだよな。そんな話とさすがオーストラリアだなという話。
 面白い話を聞けて楽しかった。SNSのアカウントを教えてもらってフレンド承認して買い物して帰宅…だけでこの日は終わらなかった。

 買い物してる間に発見してしまったのである。オードリーのコーンフロスティ。何故シリアル業界がオードリーに目をつけたかはわからないが、まあとにかくオードリーが今世間的に来てるのだろう。彼女の読みどおりに。何々、5種類のオードリーシールが入ってると。まー何せ若林の誕生日の4日後に死んじゃうくらいだもの…ん、待てよ、「若林の誕生日+死」で自分の命日?こいつ持ってないか?

 おれ、箱開けてシール取り出した瞬間大声上げたもん。こないだライブ出たとき楽屋でめちゃくちゃでかいGが出たとき以来。歓楽街のゴッキーはでっかいよねー。それはさておきだ。何故一発で引く!!

 ツイッターを開くとカミさんの遺品のカセットのツイートが、どうもオードリーのANNのリスナー様たちに拡散をされていた。


 まあ今のところRT2桁ほどの数なので彼女らしいつましさでほほえましい。何名の方からとは会話も出来てうれしかった。彼女の命日から考えて本当の四十九日は11日。一度くらいは、オードリーのANNを一緒に聴いて寝ようかな。よし、実行。俺も御歳44だもの、さらに慢性不眠症睡眠薬欠かせない身なのね。うん、3時はきつかった。

 覚えているが本当にがんも末期の時期の生前、無理をするなと言っていたのに本当に3時までラジオを聴いたあと、トイレに直行して吐いていたことがあった。このときは心配しておれも3時まで起きていた。
 「ごめん」とカミさんが言ったが正直本当にパンクだと思った。オードリー春日が昔売れない頃、キャラの迷走期に入ったときパンクロッカーの格好をして仕事に向かったあと一日でやめ
 「おれにはパンクの要素はないと思った」
 と話していたがカミさんのこのオードリー偏愛の情熱はパンク精神満載であった。さてラジオは聴いていて懐かしくなった。面白いとか下らないとかはさておき出会い自体はラジオだもんなあ、25年前のKBCの地方番組。ANNを最後まで聞いて思った。春日よりカミさんの方がパンクだ。この番組のために生命の危機まで賭けていたのだと思うと。

 何とか最後まで聴いて怖ろしい偏頭痛とパニック障害の中睡眠薬飲んで寝た。夢で、女神みたいな白い装束を来たカミさんが微笑んで「フフッ」って言ったのを見た。思えば最後の外食はそばだった。あの時は平らげられたがその後は可哀想だった。最後の若林聖誕祭のつもりだったのかもしれない。うん、アホで幸せな子だった。残された俺も、アホで幸せに生きねば申し訳が立たんなあ。