JIMA-DON

ニシジマオさん(自称日曜音楽家)の日常と散文駄文

「魔法少女まどか☆マギカ叛逆の物語」観た

 アニメ本放送は東日本大震災のさなか。
 自分にとってその頃は嫁が生死の境を彷徨う大手術と抗がん剤治療中。
 今だから書くけど、嫁の生存率は30%と低く。抗がん剤が適合しなければ間違いなく死んでいた。
 自分は稼ぎ的にもスキル的にもたいした事が出来るわけもなく、周辺でおろおろとしていただけだった。
 医療費の調達すらあまり出来てはおらず、ただ働いて嫁の留守を守るだけで精一杯。守りたいという意思はひたすら空回りの情けない有様。
 そんな自分にほむらを重ねて見ていたし、TV版ラストのハッピーエンドはとても救われた気分になった。自分には、あれでこの物語は終わっていいと感じた。のちにTVの総集編映画が公開されたが、観に行かなかったのはその所為かもしれない。

 しかし、TVのラストを観ていていくつも疑問が残ったのも事実で。
 まどかがあの結末を受け入れるほど成長していたのか?
 ほむらはあそこに到るまで時間を重ねすぎて、成長しすぎていないか?
 この二つの事をたまに考えていた。

 嫁は奇跡的に快復して戻ってきた。しかし、それからぼくらの家庭はというと順風満帆ではなく。嫁はそれから生きる目的を見出せないように引きこもった目をしてしまった。時折、自らに起きた奇跡の重さに戸惑っていたようにも思えた。
 自分はといえば、あの時の軋みはやはり精神的に破綻をきたしたのだろう。職場が殺人的に忙しくなったのに合わせて病んでしまい、辞職勧告を受けるという有様だった。「守らねば、稼がねば」などと言いながら適応もしていない半端仕事を、世間から蔑まれがちの産業のそのまた蔑まれる環境で闇雲にやっているだけの生活では致し方ない。

 この映画の公開目前の今年7月。
 嫁の癌が再発をした。
 自分は獅子奮迅の働きで手続き、医療費、その他諸々の問題を片付けた。
 その手際は友人をして「嫁の癌とか、気を引こうとする嘘でしょ」とまで言わしめた。心の中で、俺はTV版ラストの、砂漠を駆けるほむらの気分だったのかもしれない。自分は確かに成長をしていた。その成長が、今自分の心に「慢心」だとか「増長」だとかの言葉で括れる感情を引き起こしていることも感じている。その言葉を投げかけた友人とはその言葉を種にひどい喧嘩をした。

 昨日「叛逆の物語」を観た。
 まどかはやはり成長していなかった。
 ほむらも成長しすぎていた。
 本当にこの二つのテーマを舐りつくすように描いた映画であったと感じている。
 終演後、ひたすら悲しい気持ちでいっぱいになった後、心の中で何度も「気持ちはわかる」とつぶやき続けた。後ろの席に座っていた男性が号泣する声が聞こえた。「彼の気持ちもわかる」とも思った。