JIMA-DON

ニシジマオさん(自称日曜音楽家)の日常と散文駄文

宇宙サービス10周年(4)

 東京の大学に行ってたりしたらと思うとぞっとする事があります。
 表現することの喜び自体は知ってたから、おそらくそれに向かうリソースを一気に発散して使い果たしてたんじゃないかなと。
 いろんな人に迷惑をかけて絶望的な場所に追い込まれて、挫折して、みたいなが浮かぶのだけれども。
 自分は残念ながら壊れたところがある人間です。きっとそうなっていたことでしょう。
 福岡の、そのまたマイナーなシーンで御山の大将で過ごした自分にとって、そこに押し込められていたのは幸運だったと思うしかないな。
 しかしあらゆる意味での「卒業」後の風景は当然荒野でした。

 就職はうまく行かなかった。
 社会人訓練的な事も一切なく放り出されてしまった自分。
 親の無学と育児放棄
 色々と放浪したこと、引きこもったこと、肉親の不始末、家庭の不和。実家を離れられない厄介な事象。
 
 結局ラジオの投稿仲間とバンド「シンセパワー」を始め。出会い。挫折。

***

 大まかにその時期の様々なことを上の文章で端折る事にして。
 音楽的には本当に劣化電気グルーヴ?と思わせておいて。なかなかどうして変な事が出来ていたんじゃないかと思っています。なにぶんにも二人ともそこそこ歌が上手かったので、もう少し真面目にやっていたら、という気持ちは今でも持っています。
 いちおうVHSで映像が手元に残っていたりするんだけど、もうこのバンドは終わってしまったので。

http://fruel.cocolog-nifty.com/hinouma/2012/01/20120109-8ac0.html
(火の馬の宮下無双の文章。何とその頃に偶然出会っていたのだった!!)

 そのバンドの末期、たまを観に照和に行ったときに見かけた「ハイコレ」のフライヤーとオクムラユウスケのアルバム「自分防衛軍」のフライヤーにビビっと来て、すぐにでもヨコチンレーベルにデモテープを送ろう!と意気込んだ事があったのだけれど、本当にその直後にこのバンドは解散の憂き目に遭ったのでした。

 声を使う仕事がやりたくて、発声を学びたいという意思があって。
 アナウンサー学校に入るみたいな学費もない自分は、縁のあった劇団ギガに参加する事が出来ました。いくつか主演、ちょこっと音響や音楽。
 考えれば自分、色々と迷走しておったのです。けれどこのときの発生であったり身体訓練であったりの努力はその後ずっと、宇宙サービスをやるための財産として残っています。何度か役者仕事も来たしなあ、本当に数えるほどだけれども。

 ・・・ようやく、宇宙サービス結成につながった。
 次はラウンジサウンズ初登場くらいまでか。