今だから書けるアナーキー・イン・ザ・オヤジ
親父が亡くなって、呆然自失をしている間に自分のライブも過ぎ去って。
いろんな人から「大変なことがあった後で大丈夫ですか」「気を確かに持って」という言葉を頂きました。
口さがない人からは「亡くなってすぐに、プロでもないのにアマチュアバンドのライブをやれるなんて、軽率かつ不謹慎だ」と思う向きもあったかと思います。
で、この親父の話で強烈な話があってねえ。
リストラに遭った親父は、陽気な現場監督畑から突然、内業への転属を言い渡される。
しかも今風のウインドウズのPCでの内業を想像するなら気楽だが、当時のパソコンの内業は本当に苦痛だった。インターネットはおろか、アクセサリのゲーム、はたまた画像を表示すら出来やしない。
まず酒に逃げた。ギャンブルに逃げた。いろんな事に逃げた。逃げた先をオフクロ、上司、いろんな人々が待ち構えた。勤務を抜け出したパチンコ屋で倒れたり、なんて情けない目に遭ったりして、俺たちも迷惑散々蒙った。
そして親父は究極の逃げに出た。失踪をしたのだ。
一ヵ月半後、ある有力情報を元にお袋と、当時ホームレスがたくさんいた警固公園に向かった。
なんと親父はその中にまぎれて生活をしていたのだった!!
工事現場のようなやぐらが立っていた公園の隅で、陽気に何者かと話しこんでいた親父を俺たちは、温かく、普通に迎えた。
お袋は普通に「帰ろう」といった。
親父も普通に「おう、じゃ帰ろか」とだけ答えて、俺たちと一緒についてきたのだった。
それからさらに一ヶ月。
宇宙サービスのてっちゃんは大昔、若手劇団で役者もやっていたのだが、彼から
「東京の劇団が警固公演で芝居するんすけど、俺も出ますから観に来てくださいよ」
って連絡が来た。
その話をするとなぜか親父は「おう、あの連中やろ」といい始めた。
どうも、工事現場風のやぐらは、そこで芝居をするための準備だったようだ。
親父はどうも設営を手伝っていたらしく、「監督」と呼ばれて重宝されていたらしい。
結局親父オフクロと一緒に観に行った。受付の子が、びっくりした顔で親父を見ていた。そりゃそうだよね、、ホームレスだった人が妻子連れてスーツ姿で現れるんだもの。
そのとき上演された演劇は今でも覚えている。
「俺は何をしているんだろう」
と何度も自分の無力をかみ締めたのを覚えている。
ラジオの投稿者上がりで、別段何にも認められる活動をしてない自分への苛立ち。なーんか覚えてるなあ。
終演後、親父は自分にこうつぶやいた。
「あん時お前とオフクロが来なかったらな、俺はこいつらと一緒に東京行こうかと思いよったんよ・・・」
亡くなる前まで俺に
「つまらんことばっかりしおって・・・」
とこぼしていた親父よ。
俺に火をつけたのは、俺以上につまらんことばかりしては、「最高に無様でかっこ悪いことは、最高にかっこいい!!」と教えてくれた、あのときの貴方だよ。
さてこの前のラウンジサウンズ。
最高にかっこ悪いかっこよさが出せたかどうか。
親父よ、ありがとう。
音楽続けていてよかったと思ったよ。この言葉を告げられるなんてなあ。
ライブは、やらないわけにはいかなかったのです。