宇宙サービスをふと見つめなおしてみた
小劇場やライブハウスが、ややカウンターカルチャー寄りのサブカルチャーの社交場とすれば、ゲームセンターというのはオタク文化寄りのそれだと思っている。
前者が、社交場としての場をコントロールすることを運営の重きにおいているのに対し、ゲームセンターには経営側にはそういう意識はまったくないといっていい。よく、オタク常連が群れているのを経営側が嫌って排除・リニューアルを繰り返す、なんて話は日常茶飯事。まあなんといっても風俗営業(年寄りはその指定を受けた経緯もよくわかってると思う)なんだから、仕方がない。だが、いくつかのゲーセンは、それを知っている。しかし知っているといっても店員レベルや雇われ店長レベルだったりするのがこの業界の悲劇。
メーカーはいち早く気づいている。
社交場を提供しうるソフトとして優秀なオンラインゲームを、新製品のラインナップの主流に据えていることからも、それらは見てとれる。だが、ゲーセン側はどうか?
ゲーセンの多くの経営側は、小劇場やライブハウスに置き換えるとするならば常に「大ホール」「大劇場」を想定して運営をしているような気がしてならない。それらは客層も何もかもが違うわけで、結果的に相容れない客層双方が居心地が悪い空間を提供してしまっているようなゲーセンが多々見受けられる。
だが、それを目指さなければ経営は立ち行かないのだろう。ゲームのオンライン化に伴う筐体の大型化、ゲーム自身の複雑化、家庭用ゲームの進化による安価なソフトのゲーセンへの供給率の低下…。
福岡という街の、梅光園のゲーセンが閉店になるという。結構よいゲームを置いていたし、常連も生き生きしていた。2階でよくサラマンダをやったものさ。QMAもやりに行ったことがあるけど、居心地がよかった。オタクの社交場といってキモイだの、言わせときゃいいやって感じで。ライブハウスでバンドマンがとぐろ巻いてるのもくたびれたサラリーマンにとっちゃキモイものさ。
だが、そんなゲーセンからどんどん先につぶれていくこの街。
前ブログで書いたんだけれど、福岡はバスの町で人の交点がない。職場から学校から、バスに自宅まで乗って帰ってしまうひきこもりの街。ふらりと駅前のゲーセンに迷い込んでしまうような、そんな社交場を求める人が偶然たどり着く可能性なんて、ない。ゲーセン文化がこのまま行けば死に向かうものであることを、まずこのサブカルチャー不毛地帯での惨状が証明しているのを目の当たりにしてしまう悲しさ。やっぱり、福岡は出るべきだったかな。そして、出るべきなんだろうか。
ちょっと大耳と挨拶したり、ギガの人々とネットでまた再会したりでふと自分の足元を見つめなおしてみた。
今の自分の根っこは、確実に「宇宙サービス」「芸能通クイズ」「じまラジ」。それらは自分がバンマスだったり発起人だったりリーダーだったりとしている中で、それなりの評価を得たりオファーが来たりしている。
大耳やギガ在籍中だと考えられなかったことで、オファーなりお客なりが「大耳」「ギガ」と色眼鏡を加えてこちらに接点を求めてきていた時代がいつの間にか過ぎてしまっていて、こっから先は自分の色をきちっとやっていかなきゃならんなあ、いやもう既にやってしまってるか。あ、これって巣立ってたってやつ?
そういう意味で視点をあらためて、ギガや大耳と接していると、何か新しい。もちろん実績や認知度、そして何より舞台芸の技量はあちらのほうが遥かに上さ。だが、自分の好きなほうに、また自分の思うところでお客を魅了できる楽しみは、なにものにも変えがたいし、まさに今になってあのときのあの人々の気持ちがわかる。やっかんだりする気なんて無いや、今や彼らと同等の立場だ。まだまだ上を目指さなくては。今のとこ次の目標は西日本新聞(苦笑)。天神バナナな!