JIMA-DON

ニシジマオさん(自称日曜音楽家)の日常と散文駄文

麻婆春雨の夜

 がんと戦うのはとても辛かったろうなと思う。
 今になって、カミさんを失った悲しみや喪失感は果てしなく、今日も夕方まで寝込んでしまうくらいだった。けれど彼女に蘇って欲しいという気持ちはあまりない。あのガンというものと戦う恐怖は彼女も二度と味わいたくないのだと思う。
 不思議なものでカミさんはもうおれの夢に出てきた。しかも、通院する手続きがどうたら、という感じの夢。だから今ふわふわと我が家を漂っているであろう彼女にとってはまだあの病院通いの日常が続いていて、そしてもうきっと二度と生の中で、あれを味わいたくないのだろうなあと理解する。

 去年の12月の末、九州がんセンターセカンドオピニオンを立てた。
 よく覚えているが結果は「1年以内の死」。とても芳しくないものだった。効くかわからない免疫療法が提案に入っていた記憶がある。結局、それらの抗がん剤は局地的には効いたがばらばらに散ったがん細胞は進化を遂げていった。
 結局、自分たちが出した結論は転院をせず、カルテが豊富に積み上げられた元の病院で治療を引き続きするということになった。結果がよかったかどうか悪かったかどうかなんてもう、わからない。
 もちろん彼女は泣いたし、死にたくないと何度もつぶやいた。何度も「私もっともっと長く家族でいたい」とも言った。9ヶ月か、長いような短いような。いや、きっと短い。でもこの9ヶ月は果てしなく辛かった。

 先月末に入院をしたとき、マーボー春雨の素が家に残っていた。その日の晩飯の予定だったらしい。何せ緊急入院だった。朝から家の中で盛大に吐いたし、その日含め何日も食事を取っていなかったからだ。救急車を呼んで、負ぶさって病院に向かった。それが、彼女が家に居た最後になった。
 そのマーボー春雨をカミさんが入院中、おれが「食べていいか?」って言ったら鬼の形相で「ダメ」と言った。酸素マスク越しに。血中酸素濃度が低くて、そんなものをつけられていた。緊急入院時、彼女は腸閉塞を起こしていたのだった。必死の施術の末山は越したが、かなり痛い目にあったらしく彼女は泣いていた。
 「こんな痛い目に遭ったのに家に帰れなかったらと思うと、悲しい…」
 残念ながらその悲しみは的中してしまった。

 さて、今日の晩御飯はそのマーボー春雨にした。いろんな思いがこみ上げた。
 彼女の祭壇に米と一緒に供えて、自分は何をやっているんだろうという気分になった。
 この悲しみは僕ら夫婦ふたりだけのものだ。多分、彼女もそう思っているだろう。しかしマーボー春雨という食べ物で想起するのはあの和田アキ子の呑気かつソウルフルな「ん永谷園の麻婆春雨♪」のCMソングのメロディなんである。壮絶な命のやり取り、現生にひとり取り残されたおれの寂寥感、何もかもからめとってあの歌が、ずっと脳内で流れていた。
 ふたりで声を上げて笑って見ていたテレビを見ながら食べたが、声をあげて笑った瞬間、本当に寂しくなってしまった。